会津西街道の旧宿場・大内宿でネギ一本でたべる「ねぎそば」をいただく #福島美味 #会津下郷
現在、会津下郷をつらぬいている国道はかつての会津西街道と平行していて、ここはむかし参勤交代にもつかわれた宿場の点在する土地でした。
そうした宿場のうちの一つで、三百年前の建築がいまも伝わっているのが地元の観光名所の一つ、大内宿です。
保存されている茅葺き屋根の集落といえば白川郷が有名ですが、こちらも負けない規模です。しかもどの家もちゃんと住人がいて、土産物屋や料理やなどとして活用されているという「生きた」重要伝統的建造物群となっています。
もちろん大内宿も歩いていて楽しいのですが、ここでは会津下郷に到着した時からうわさをきいていたねぎそばをいただきます。
大内宿には40-50戸の茅葺き屋根の家や、保存建築が存在し、道のどちらをみても歴史的な風景を楽しむことができます。
普通に歩いていても楽しいのですが、誰かガイドがいるとなおのこと、この土地の来歴を知ることができて歴史を感じることができるでしょう。参勤交代に使われた頃のこと、戊辰戦争の戦場になったこと、その後近代化して、観光地化するまでの歴史が村の随所に残っています。
1878年には「日本奥地紀行」のイザベラ・バードも立ち寄っているとのことだったので、本を取り出してみたところ、ほんの数行でしたが大内村は彼女によい印象を残したことがわかります。
山王峠の超常から眺めると、連山は夕日の金色の霞につつまれて光り輝き、この世のものとも思えぬ美しさだった。私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒にした屋敷であった。村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった。(イザベラ・バード「日本奥地紀行」第十二信、平凡社)
明治期の日本を旅して多くの美しさや驚異を記述するとともに、その未開さを「不快な」「いやな光景」「だらしない」などと遠慮なく描写してゆく彼女にしては寛大な扱いというべきでしょうか(笑)。
その大内村も、いまでは観光名所として維持されています。ここの特徴は、建物を昔のままに保存しつつも、人が商いをして生活するために土産物屋や料理店として積極的に活用しているところで、みていてとても活気があります。
大通りの両側にながれる水もとてもきれいで、ラムネやジュースなどが冷やされているのを見ているだけでのどが渇いてきそうでした。
大通りを歩いているとなかなか全景がわかりませんので、一番奥の観音堂のある斜面までのぼります。ここが大内村を撮影する絶好のポイント。というわけで HDR で撮影してみました。
というわけでねぎそばです。今回は「こめや」様にお世話になりました。
ねぎそばは一本のねぎを箸のかわりにして、齧りながら食べるというもので、写真にするとなかなかのインパクト。これも由来は正確には調べきれなかったのですが、もともと地方の縁起担ぎから始まっているという説があるようです。
味のほう、というよりもねぎで本当にそばが食べられるかというと…なかなかに難しいのが実情です。箸も使ってねぎとそばを同時に食べると、最初はツンとしたネギの辛味が気になるもの、次第に慣れてきてそばに多めにねぎを入れた時くらいに気にならなくなります。これはこれでありです。
食後にはとち餅をいただきました。独特のほろ苦い味わいに餡ときな粉が合わさって猛烈にお茶が欲しくなる味です。
栃の実の灰汁抜きは手間と時間が掛かり、また各地方・家庭で受け継がれているコツなどもあり、未経験者にはやや難しい。実際の所、完璧に灰汁を抜くのは困難であり、栃餅には独特の苦みがある。(Wikipedia)
なるほどこの苦みか、と納得する味なのですが、不快なことはなく、むしろ焙じ茶をいただいているような風味が食後にとても合います。
食事のあとは店のご主人から、大内村が時代が変わりゆく中でもどのようにして伝統を守っているのか貴重な話をしていただきました。
これらの建物の建造方法はもちろん、茅葺き屋根の整備一つをとっても、その方法を伝承し、次の世代に伝えなければこの大内宿は一世代にして消えてしまうわけです。
また、現代では一見無意味にみえるような伝統も、それをそのまま継承することによって建物などの有形のものだけでなく、無形の、この土地に流れている歴史の重みそのものを伝える効果があるのだなという気がしました。
少し駆け足で通ることになったのが惜しかったですが、ぜひ次回は紅葉か、あるいは雪の時期にも来たい場所です。
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