嘘もノイズも物語になり得る。「フーコーの振り子」ウンベルト・エーコ
アルカンタラの熱い夏の佐々木さんが始めていて、みたいもん!のいしたにさん、R-Styleの倉下さん、がこれは良い企画と追撃していた(たとえばここ、とここ)「千冊紹介する」というブログエントリシリーズに遅ればせながら乗ってみることにしました。
実は前から Me and My 1000 Books というシリーズは考えていて、ロゴまで作っていたので驚いたのでした。やはりというのか、心で分かり合えたような。
この千冊紹介するというブログシリーズのミソは、「読み終わったものを紹介するのでは追いつかない、読みかけでもいいので紹介するという点にあります。
読み終わったものだけ書く。というルールを課していたら近頃なんにも書けなくなった。でも本を読まない日はない。だったら読み終かけでもなんでもいいから書けばいいじゃないかと思って書くことにする。
なぜ千冊なのかというのは、人によって思うところはあると思いますが、松岡正剛氏の千夜千冊へのオマージュを意識しつつも、やる気スイッチのように機能している面があります。
この数字のカウントって、自分のやる気スイッチなんですよ。1000というゴールを設定することで、そこを埋めていこうという気持ちが作られるわけですからね。
それに、1000というスケールが、やはり1年や2年ではなく、少なくとも数年はかかるというのも重要です。これに乗っている人がそれぞれの人生のステージを意識してとりくんでいるのが、なんとなくわかります。
そのあたりはおいおいと、紹介する本の網目によって伝えることができるとよいなと思います。というわけで一冊目。## 1冊目:「フーコーの振り子」ウンベルト・エーコ
記号論学者であり、「薔薇の名前」で世界的な作家となったウンベルト・エーコの小説、「フーコーの振り子」です。
ミラノの零細出版社ガラモンの編集者ベルボと、その同僚のディオタッレーヴィ、そして語り手であるカゾボンは自費出版のために持ち込まれるオカルト関連の原稿に目を通す毎日を過ごすうちに、半分は風刺として、もう半分は知的遊戯として自分自身でテンプル騎士団の宝物と彼らの隠された歴史についての「計画」をでっち上げるという遊びを考案します。
しかし三人があまりにその「計画」に没頭したためにそれは現実の歴史に対してリアリティを持ちすぎ、やがて「計画」が本当に存在した秘密結社に知られるところとなったためにベルボはテンプル騎士団の秘密を知る人物として狙われるようになる…。
ここまで書いただけで、エーコらしい悪戯が筋書きにすでに組み込まれていることがわかります。小説はフィクションであるがゆえに成立するのに、フィクションの中に現実の歴史についての偽史が書かれていて、どこが現実の歴史で、どこがフィクションで、どこがフィクションの中のフィクションなのかが説明なしに錯綜するという。
「ダ・ヴィンチ・コード」よりもずっと先に書かれているのですが、ネタとしては近いものを扱っていて、レンヌ=ル=シャトーの陰謀論などもすでにここで内包されているというのも恐るべき話です。
実際、「ダ・ヴィンチ・コード」について質問されたエーコの返答はこのようなものでした。
「私の見解ではダン・ブラウン自身が「フーコーの振り子」の登場人物なのです。それはオカルトを覗き込み、それを信じてしまう人々のことです。
ーしかし貴女自身もカバラや錬金術、その他の作中に登場するオカルトに興味を抱かれているように見えますが?
「いいえ、私が「フーコーの振り子」で描いたのは、そうしたものに興味を惹かれる人々のグロテスクな表象にすぎません。そういう意味ではダン・ブラウンも私の創造物なのですよ。
このように、物語が現実を侵食するというモチーフはエーコの師匠であり、「フーコーの振り子」がその基本的な構造を受け継いでいる「トレーン・ウクバール・オルビス=テルティウス」(「伝奇集」に所収)にすでに現れています。
そして「フーコーの振り子」もまた、「ダ・ヴィンチ・コード」などの登場によって現実に侵食され、本来フィクションであったはずのものが現実をひとり歩きし始めるという奇怪な現象が起こっているわけです。もともとは単なる思いつきや、コンピュータがはじき出すランダムな組み合わせにすぎなかったというのに。
ウンベルト・エーコの専門は「記号学」という哲学の分野なのですが、彼がその初学者にむけて書いた「記号論」という本では、「嘘をつくことができない媒体はそもそもいかなる真実も伝えることはできない」という記述があります。
これを理解していると、エーコの小説の、小説でありながら小説を内側から食い破る危険さがぞくぞくと伝わってきます。「薔薇の名前」が推理小説の構造を借りながら犯人の非在によって事件そのものを虚構化したあの驚きの展開、「バウドリーノ」の主人公がつく嘘が作中で次々と真実(?)になってしまうあの抱腹絶倒さも、なにをもって真実は真実となって、物語は物語となるのかに迫っているのです。
物語のないところにも物語は読み取れる。意味のない言葉にも人は希望を見出せる。その愚かさと可憐さは人生を生きる上で一つの不在の指標であり続けているのです。
(追伸)
「フーコーの振り子」は日本語訳は実によい仕事をしていると思うのですが、いかんせん原作がそもそも読みにくいのが難点です。なので英語訳もあわせて読むというハイブリッド読書で何度も両方を渡り歩きながら読んでいます。
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