「ブログ術」は何かが違うのではないかと思った人のための「地味なブログ」という選択

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それは冗談からはじまりました。

ブログ R-Style の倉下さんが「『燃えないブログの作り方』ってライトノベルっぽいタイトルを思いついた」とつぶやいていたところに、私が「冴えないブログの育て方」はどうだろう、と軽口で返事をしました。

それは私のブログですねと謙遜する倉下さんに、私こそ地味なブログですよと書き込んで仕事に戻ったのが金曜日。そして週末になる頃には「日本地味ブロガー連盟」というサイトが立ち上がっていました。本当に、どうしてこうなったのでしょう(笑)。

最初の私の返事はライトノベルのタイトルをもじった言葉遊びに過ぎないのですが、私は私で、いつも自分のブログを「地味」と表現することを一つの約束にしてきました。

人気ブログを作らなくてはいけない、多くの人に見られていなければ無意味だ、という息苦しさを感じている人だけでなく、その反作用で全てのブログは勝手に好きなことを書けばいい、それ以外は邪道だと断ずる人にも、なにかのヒントになるかもしれません。

この「地味」という二文字は。

自分の伝えたいことを、人に伝える

回りくどい説明になります。

ブログというメディア ―ここでは個人が個人の視点で更新するそれに狭めて書きますが― にはいつも一定のさもしさというのか、人気取りの部分が付きまといます。

ウェブに公開されているからには、そこには偶然であれなんであれ、読者が存在します。そしていくら本人が「個人の日記」だと言っても、他人に見せている時点で、言葉は書いた本人の手を離れて評価されます。ブログで個人の日記というものなどない、と言っているわけではありません。個人の日記であっても、それを読む他者には、それは鑑賞される対象となるのが必然だというだけのことです。

読んでほしいという気持ちは読者を求め、読者を求める気持ちはブログを一つの芸に押し上げてきました。

人に見られるために書く。それは本当に素晴らしことで、更新した記事が世界のどこかにいる、きっと会う機会もない誰かに読まれていると思うだけで、感動があります。

だから、もっと人に読んでほしい。もっと読むに値するものを書きたくなる。そうしたものを自分でも読みたくなる。ブログはこうした個人の書き手の気持ちを載せてどんな形にでも変容する自在の器として機能してきました。

さもしいというと語弊がありますし、人気取りだけだといえば誤解が生まれます。でも「読んでほしい」という気持ちは読者を求め、読者を求める気持ちはブログを一つの芸に押し上げてきました。私もそれと無縁ではありませんし、そうした気持ちはまったく自然なことだとおもいます。

でもこの流れの中で、面白いことが起こりました。器の中身ではなくて、器それ自体が磨かれるようになったのです。

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ブログ術に個性が殺される

ウェブにおけるコンテンツの流れは本来読み手の「これは面白い」「これは便利だ」という感性に支配されるべきです。私は「べき」という言葉をあまり使いませんが、これは使ってもいい少ない例外の一つです。

しかしウェブはあまりに広大で、あまりに動的なので、コンテンツを探す際の代理人が必要となります。言わずと知れた、検索エンジンです。

すると、「より多くの人に読んでほしい」の技芸は検索エンジンへの最適化という形で加速します。それだって悪いことではなくて、必然に過ぎなかったのですが、この必然は一つの逆転を生み出します。

より多くの人に読んでもらいたいがために、書かれたブログは皮肉なことに先に検索エンジンのbotによる検閲を経なければいけなくなったのです。検閲というと言い過ぎかもしれませんが、アルゴリズムによる緩やかな序列化がトラフィックを分配しますので、読者の数だけ無限に存在した切れ目のない興味の世界は検索キーワードによって原子化され、検閲トップページの広さに依存したゼロサムゲームの様相を帯びてきます。

検索エンジン最適化は一つの例に過ぎません。実際にはソーシャル流入、モバイル最適化、書き出しから目次の入れ方、htmlヘッダの作法から、更新タイミングとプロモーションの仕方など多岐にわたる項目が一つまた一つと、読まれるためにエンジニアリングされていきました。

誰にでもできるという意味で、本来読まれるために生み出された技術がブログから個性を削ぎ落とす結果をもたらす

それはなにも悪いことではなく、むしろある程度は必要なことなのですが、器に中身が一文字も盛られるまえから決まっている約束事が多いことが、この逆転をより強めます。

Google Adsenseによって収入を得られることはこれをさらに強めました。大好きなブログで好きなことをして「食える」ことが一つのステータスとして受け止められると、さらに読まれるためのテクニックは洗練を極めます。

結果として、多くの人に読まれるために検索流入のあるキーワードが選ばれ、効果的なテンプレートが選ばれ、約束事を守っているうちに、それは一つの作業・技術へと変化していきました。実りのある、現在のウェブとソーシャルの仕組みの理解に基づいた立派なエンジニアリングですが、誰にでもできるという意味でそれはブログから個性を削ぎ落とす性質のものでもあります。

個性が発揮される部分が相対的に少なくなり、好きなものが作業化してしまうと、それに満足できなくなる反作用も生まれます。

地味ブログというのは、そうした流れに対する回帰のキーワードでもあるのです。

技術を横目に、声を優先する

最初にことわりを入れないといけないのは、なにもいま存在する「ブログ術」をすべてかなぐり捨てよといっているわけではないという点です。技術には目的があり、目的を達するためにそれは有用です。

しかし、たとえば「この話題・キーワードは検索流入が少なそうだな」と思って言葉を選ぶよりは、「まあいい、このほうが自分らしいからこれでいこう」という選択を優先する。たったそれだけでいいのです。

あるいは、誰も読みそうにない内容だから、バズりそうにないから、アフィリエイトをからめることができないから記事を書かないよりも、「まあ、いいか」と書いてしまうことでもいいのです。

長い目でみえると、個性を守る以外にとるべき方法はない。それが「地味」という意味

技術の前に、自分だけが書くことのできる「声」を意識する。するとコンテンツには個性が戻ってきます。個性は一部の読者を強く惹きつけるとともに、一部の読者を強く遠ざけます。PVが爆発的になることもないでしょうし、狙いすました記事ほどには広告収入はあてにできないかもしれません。

でも長い目でみえると、個性以外にとるべき方法はありません。守り続ける限り、個性だけは廃れないからです。地味にブログを続けるというのは、そう信じられる人がくぐる狭き門なのです。

そして、どんなブログを書いているのですかと聞かれたら、一握りの、でもあなたの書く文章を愛してくれている人のために書いている自負とともに答えれればいいのです。「いや、地味なブログですよ」と。

「声」をもったコンテンツに向けて

さてさて、こうした記事が危険なのは、一言でブログといっても芸能人のブログから趣味の記録に政治論までさまざまありますので、こんな短い文章でそのすべてを論ずることも断ずることもできない点です。個性的な声をもちながら術を駆使している異能の人もいますし、炎上という形で記事を芸に高めて名前を地に落とした人もいます。そもそも、これは例外の方が多い話題なのです。

しかし回りくどく説明して、ひとまず私が地味なブログですよと口にするときに念頭にある優先度の尺度については触れられたのではないかと思います。

「声」をもったコンテンツについてはまだまだ書き足りないことも、書くべきことも多くあります。また、ブログ術のすべてがホコリをかぶった棚にしまわれるべきものではなくて、自分の言葉のリーチを制御するために利用可能なものは数多くあります。この記事でも、それとなく、さりげなくそうしたパーツをいくつも使っていることにお気づきかもしれません。

ブログ「ライフ×メモ」の金曜日はなるべくそうした声をもったコンテンツの作り方、という話題にむけて書いていきたいと思います。

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堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。

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