7冊目:アンナ・カヴァン「氷」
「私は道に迷ってしまった」この、ダンテの神曲「地獄編」の冒頭を思わせる書き出しから、物語は、読者は、混迷と破壊の灰色の風景のなかを止めどなく歩み続けます。
アンナ・カヴァンの「氷」は、サイエンス・フィクションやファンタジー、あるいは純文学といった範疇にとどまらない、越境的で、非現実的な作品群、いわゆるスリップストリーム文学の代表的作品として知られています。
「氷」では、急速に迫り来る気候変動によって大寒波にみまわれた国で、主人公の「私」が偏執的に一人の少女を追い求めるものの、常に絶対的な権力者である「長官」に阻まれるという基本的な構造のまわりに物語らしきものが散りばめられています。
「らしきもの」というのも、まばゆく輝く髪と白い肌、そして弱々しい手足をもつ少女は常に幻影のように「私」の脳裏に去来して、はたしてそれが目の前の現実なのか、想像のなかで考えついたものなのか脈絡がないままに描写はいきなり飛び、行動は帰結を生まず、時間の流れも描写もすべてが矛盾したまま駆り立てられた追跡は続くからです。
そこに岩があった。岩ではなく小さなコテージだった。コテージに入ると数千人の男が壁に迫っていた。戦争の暴虐が目の前に繰り広げられる…。といった具合に、「どうして?」とか「なぜこうなる?」という質問が無意味な展開ばかりです。
読んでいて、何一つ描写を信じることができないあてのなさが続きます。でもそれが、心地よくなるのです。
「少女」を追い求めて
この物語が、ヘロイン中毒者でもあったアンナ・カヴァンの妄想だけではすまない魅力は、「私」にとりついて離れない「少女」を希求する切羽詰まった衝動を追ってゆくだけで、スリルが増してくるからです。
何度も少女を見出し、失い、時には目の前で少女の死を目の当たりにして、それが幻想であったのか妄想であったのかの説明もなく、次の瞬間にはまた彼女をもとめて「私」は駆け出していきます。
それを阻むように常に出現し、世界を覆い尽くすような氷の壁。広がる略奪と殺戮に心は凍てつき、「高い塔」の絶対的権力者である「長官」の笑い声が無力感を誘います。
スリップストリーム文学は、文体やプロットから放射される強いアンチ・リアリズムを基調としています。その基本的な雰囲気は認知的不協和に支配されており、矛盾した事実、プロットの崩壊といったものは欠点ではなく、むしろその解決できない論理の不快さが作品の核にあるのです。
この感じ、私はずっと忘れていたのですが、いつか子供の頃にみた夢にそっくりだということに気が付きました。あとすこしで名前を思い出せるはずの少女が私の探索を駆り立てるのですが、どうしてもあと一歩というところで目がさめてしまう…。それに似ているのです。
矛盾も混乱も、崩壊した世界も障害も、この夢の存在を追い求めたいという望みにはかないません。それだけが、この凍りついた本を貫く唯一つの情熱なのです。
追い求めてください。混乱してください。迷い込んでください。
冬のうちに、ぜひ読んでいただきたい一冊です。