シン・ゴジラ発声可能上映で感じた「いま見にゆくべき」理由
アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督の最新作、「シン・ゴジラ」がネット上で大いに人気で、深夜だろうといつツイッターを開いても、可能な限りネタバレを避けながら、その楽しさやうんちくについて語っている人がいるほどです。
欧米で映画のセンチメント・アナリシスをしている友人からは、「シン・ゴジラ」については通常の10倍ものツイート数が流れていて、しかもさまざまな感情や評価が入り乱れていて「これ」と指し示す方向性がないという話題も耳にしました。
それほどまでに、「シン・ゴジラ」は見る側が情熱を注ぎ込む「器」として優れているのだなと、私も何回か映画館に足を運びながら、その度に自分の中で沸き起こる感情の変化におののきつつも楽しんでいました。
そんななか、この「シン・ゴジラ」の発声可能上映があるという話題が飛び込んできて、これは行かねばと、ブラウザの前でねばりにねばってなんとかチケットを一枚予約できました。たぶん、最後の一枚だったのではないかというギリギリさです。
発声可能上映とは?
アイドルのアニメや、その他のイベント性のある映画では「応援」上映のようなものはこれまでにありました。しかし「シン・ゴジラ」のような、長いセリフ回し、静と動とが入り乱れた演出の映画において、声を出して応援し、コスプレを行い、ケミカルライトを振ることでどんな上映になるのか?
企画を担当された東宝のかたも、劇場での挨拶で未知数だとおっしゃっていました。しかし漫画家、島本和彦先生が来場して親友である庵野氏の作品を前に吠えるのでは? そのようすが見たい! という具合に話題は膨れ上がり、劇場は期待にあふれた空気に包まれていました。
私はといいますと、コスプレ可能と聞き、チケットをおさえた段階で次におこなったのは、以前からお世話になっている 3M のかたに連絡することでした。「劇中でつかわれた防護マスク、防護服を貸していただきたい!」と、無理をいって社内調整をしていただき、一着貸していただくことに成功したのです。
この防護マスク、説明しておくと、劇中で主人公の矢口ではなく、その周囲の人々が身に着けていたもので、3M フルフェイス防毒マスク 6000Fに、有機ガス用吸収缶 P100 を装着したものです。ガスと、放射性物質を含む塵を防ぐことができるので、原発などでの作業にも利用される製品です。
防護服は、3M化学防護服4520。静電気の発生しない、微粒子防護用密閉服です。これも放射性物質を含む塵を防御するのに使います。こちらは劇中では使われていなかったと思いますが、ほぼ同様の製品がたくさん登場します。
勤め先の制服の上からこの防護服をかぶり、鉄板入りの現場用安全靴を装着し、完全なる戦闘態勢で向かいました。やるなら、本気です。
発声可能上映にこのかっこうでいるのですが。意外にコスプレのひとすくなくて震えてる pic.twitter.com/xW5B3bXYPm
— 堀 E. 正岳(ほりまさたけ) (@mehori) 2016年8月15日
いや、ちょっと震えていました(笑)
歌舞伎の大向うのような「発声」
さて、上映は最初に島本和彦氏の挨拶でみなが盛り上がり、「見せてもらおうか、庵野秀明の実力とやらを!」と全員が唱和してはじまるという異様な熱気に包まれました。
どこで「発声」をするかはあらかじめ決まっていません。なので来場者はそれぞれが好きな場所で、声を張り上げていきます。
上映前のセブン-イレブンの広告の歌の合唱ではじまり、映画が始まればキャストがあらわれるたびに「矢口!」「総理!」「防衛大臣!」などと声が上がります。まるで歌舞伎の大向うのかけ声をきいているかのようです。
映画にツッコミを入れるネタのかけ声も数多く、ゴジラが一度海に帰る際に「またねー!」のかけ声をきいたときには大笑いしてしまいました。そうした大喜利スタイルの発声が思ってもいなかった角度から「シン・ゴジラ」の新しい見方をどんどんと教えてくれるのです。
その一方で、場内の空気が一体になる瞬間も数多くありました。総理が決断を迫られるときには、「総理!」「総理!」「ご決断を!」「総理!」という声があがりますし、攻撃の裁可がくだされると、一同が拍手するという具合にです。
ゴジラが動き出すと誰が決めたのか赤いケミカルライトが振られ、中盤のあのシーンでは紫の色が、自衛隊が活躍している時には緑が振られるという暗黙の統一感にも驚きました。
そして、全員が発声をやめる瞬間もありました。
終盤の決戦前のシーンでは、誰一人声を発することなく厳粛に耳をすまし、その後決死の作戦に乗り出してゆく自衛隊員たちに拍手が沸き起こる流れは、不思議な一体感を感じたものです。誰にいわれずとも、「ここは、ちがう」と何がが告げていたのです。
なにが共有されていたのだろう?
発声可能上映自体は、こうして最高の雰囲気のなかで過ぎてゆき、上映後の島本和彦先生のトーク、サプライズで登場した庵野秀明監督に観客は大興奮の空気に包まれました。
しかしそれはそれとして、私はこの発声可能上映のこの空気を可能にしたのはなんだったのだろうか? という点に考えが戻ります。
繰り返しますが、今回の上映のまえに、どこでどんな発声をするかは決まっていませんでした。しかし明らかにすでに複数回「シン・ゴジラ」をみている観客たちは、この作品のどこをなぞり、どこにツッコミを入れ、どこで一体化すればいいのかを理解しているようでした。
発声可能上映、ヤジを飛ばし合うようにネタを叫ぶ時と、みんなが声援や拍手をする場所、そして全員が沈黙して心に刻むシーンがあるというのがすごかった。めいめいが昂ぶる場所と一体になって興奮する場所とが可視化されたのが素晴らしい。
— 堀 E. 正岳(ほりまさたけ) (@mehori) 2016年8月15日
それは間准教授が「パン」と手を打ち合わせるところであったり、財前幕僚長が「仕事ですから」とこともなさ気に言うシーン、尾頭課長補佐やカヨコのあんなシーン、こんなシーンであり、自衛隊の「退避ー!」のかけ声にいたる、作品を作品たらしめているピースを丹念になぞって拾ってかけ声で再構成してゆく手続きでした。
島本和彦先生が上映後、「俺達がゴジラを倒したみたいだったな!」とおっしゃったのは、まさにそのとおりなのです。そしてそれは今回、発声可能上映だったから可視化されたものの、通常の上映でも観客の心のなかに去来する作品との一体感なのではないかと思うのです。
これは私見なのですが、「シン・ゴジラ」におけるゴジラはあれほどまでに威圧的で禍々しいのに、最後の一線で存在がどこか儚げで消えてしまいそうで、むしろ地震や台風のようなとらえどころのなさを放射しています。あれほどの力を奮うのに、意思をもっているようにみえない黒い災厄の塊。定義しようのない、ぽっかりと開いた穴のような虚無。
無は、そこに何かを盛るための器になります。そういう意味では、「シン・ゴジラ」は本当に優秀な器なのです。
「シン・ゴジラ」に対する評価や評論が多種多様にあるのに、どこかで互いの論が相互矛盾していたり、一つの論がほかを呑み込んでしまうことがないのも、その器としての特性があるからなのではないかという気がします。「好きにするといい」そう、好きに、どのようにピースをつなぎ合わせるのも自由になっている娯楽映画として。
そして、それは、まだ「シン・ゴジラ」を見ていない人にとって劇場に足を運ぶ大きな理由になります。
**見れば、必ず「ここは」と感じるピースがあります。**そしてそれを、すでにみたひとがこの作品について語っている言葉と照らしあわせて、自分の映画体験の感動や興奮をさらに深めてゆく「共有体験」として受け取るタイミングは今をおいてほかにありません。
そういう意味では、発声可能上映はこれから見る人、これから何度も見る人にむけた、いわゆる「ネタ出し」の意味もあったわけですね(笑)。
大きな災害や、歴史的出来事の意味合いが、その事態が進行中にはなかなか全体としてとらえるのが不可能で、時間がすぎてようやく捉えられるようになることはよくあることです。「シン・ゴジラ」もまた、そうして時間がたってから「あの映画が、ひとつの区切れだった」と言われるようになりそうななにかを持っている気がします。
まだまだゴジラ現象は進行中です。どのような収束や、決着をみるのかもまだわかりません。
だからこそ。いま、劇場で見られるいまこそ、ぜひ見てほしいと感じるのです。
(追伸)
今回、小道具を貸してくださった3M広報様に熱く御礼申し上げます。私の3M記事はこちらで全部よめますのでよろしければどうぞ。あと、9月13日開催の「ざ・3Mセミナー」というイベントもありますので、こっち系に興味ある方はぜひ。
(追々伸)
「ラーメン逃げてー」と発声してしまった反省に少し辛めで夜ごはん pic.twitter.com/ItK6Tcp8hi
— 堀 E. 正岳(ほりまさたけ) (@mehori) 2016年8月15日
陳謝いたします。辛かったです。