PVや収入のために知りもしないことを書くことについて
Matty Grangerさんは映画の素人ではありません。映画評論家やジャーナリストではないにせよ、脚本家として映画業界で生きてきた人間として、脚本やプロットについて、テレビシリーズにおいてそれがどのように情景や感情を作り上げてゆくのかについて知悉している人物です。
そんな彼が、「スター・ウォーズ フォースの覚醒」をみて、Facebook のノートとして批評を書こうとしたとき、どうしてもそれができないということに気が付きました。
友人や同業者がなんどもソーシャルメディアでシェアして回覧していたハフィントンポストの記事、「『スター・ウォーズ フォースの覚醒』のプロットの40のおかしな点」が頭から離れなかったからです。
この記事は映画を見に行った人々のためのネタバレの話題で、映画のツッコミどころを長々と書いているものでした。しかしその内容が、あまりにプロットに対する知識や認識の欠如にあふれていたため、それが呪いのように頭にこびりついていたのです。
そこで業界では Reverend Matty 「マティー師」とあだ名されている彼は、映画のレビューではなく、このハフィントンポストの記事を引き裂くことに決めました。
ソーシャルメディアの有用性の限界
Mattさんの記事は脚本という自分の天職への攻撃に対する苛立ちに導かれてハフィントンポストの記事の全40項目を全否定していきます。
ネタバレになりそうな点を隠しつつ、いくつか紹介すると:
ハフィントンポストの記事:「4. 主人公はたった数時間で旧三部作のルークと同じくらいフォースの扱いに慣れてしまう。おかしくないかそれ」
Mattの返答:そうだよな? どうしてって不思議になるよな? この主人公の過去には隠された謎があって、これからの映画で明かされるんじゃないかって思うよな? これが脚本上のセットアップであるってわからないようなら、お前はNetflixから強制退会されるべきだよ
とか:
ハフィントンポストの記事: 6. ずいぶん都合よく敵と味方の間に崖があらわれるものだよね
あのシーンではそこら中に崖が生まれていたけど、それに加えて不倶戴天の敵になった二人を引き裂くシンボリズムなんだよ。気づいてないようだが。
といった具合です。こりゃ辛辣だ(笑)
この40項目の虐殺も読み物としては楽しいのですが、注目すべきは、Matt がこうしたハフィントンポストの記事のように、クリックベイトの記事、タイトルで釣って中身が伴わない記事についてそれを指弾する言葉です。
I don’t know about the rest of you but I’ve grown exhausted with the horseshit, hater culture that online, millennial ‘journalists’ use to click-bait their way to some sort of self-perceived intellectual high ground. Hate first. Don’t bother asking questions later.
君らのことはしらないが、私はこのミレニアル世代の自称ジャーナリストどもがクリックベイトを駆使して知的に有意な立場を獲得したつもりでいるクソみたいなオンラインカルチャーが嫌いで仕方がない。まずは炎上優先。正確かどうかなんて疑問にも思ってないんだ。
また、記事の末尾で、彼はこの流れを「ソーシャルメディアの有用性の限界」と表現します。
We are very close to reaching the end of social media’s usefulness. Anyone with a keyboard can write anything they want with little to no training or skill. More often than not, the articles don’t even need to be true or have any sort of back up research and sadly all it takes is a bold, contrarian statement to convince people who aren’t interested in doing research for themselves that something wildly incorrect is truth. This extends from simple movie reviews to horrifying humanitarian crises. Actual news has become a rare commodity and we are little more than targets for advertising and electoral votes. We are being fed stupid disinformation and tricked into thinking we have knowledge that we don’t actually have. We have willingly grown stupid.
私たちはソーシャルメディアの有用さの限界に到達しようとしている。キーボードの前に座った人間なら誰でもなんの訓練や習熟もなしに何をいってもかまわない。悲しいことに、しばしば記事は正確であったり裏付けがある必要はなく、大胆で人と反対のことをまくしたてるだけで、自分ではその信ぴょう性を調べるつもりがない人々にそれが正しいと信じこませるには十分なのだ。本物のレビューはますますまれになり、私たちは広告か政治的な票集めの標的になるばかりだ。私たちは偽りの情報を与えられ、知りもしないことを知っていると思い込まされているのだ。私たちは自らすすんで馬鹿になってしまったのだ。
大きな声、強い刺激、無責任に声は拡散する
これはとてもおもしろい指摘です。ハフィントンポストの記事を一応弁護しておくと、これは映画をみたあとにお茶をのみながら互いにツッコミをするというあの楽しい時間をなぞらえた記事です。たしかに映画を見ていればわかるだろという間違った項目も20近くあるのですが、記事自体は拙くてくだらなくて楽しい、ただの読み物です。
面白いのは、この記事がたしかにあまりに間違っている、映画を見ていればわかる程度の話か、そうでなければ「それをいったらおしまいでしょ」という点を大量に盛り込んで40項目にしたうえで、「お気に入りの映画には40個も欠陥があるよ」とソーシャルメディアでバズることを念頭に書かれているという点です。Matt の怒りはそこに最も向けられているのです。
彼はくだらない楽しみはくだらないから消えてしまえばいいなどと言ってるわけではありません。
しかし広告収入やPV指標に振り回されるウェブメディアは本質的に「クリックさせたらあとは内容はわりとどちらでもいい」という構造を確かにもっています。
内容の価値で評価されるのではなく、クリックさせてシェアさせるかで評価されるなら、嘘偽りでもいいのでタイトルを盛ってクリックさせて、怒りを惹起するほどに内容を度を越した状態にして「これはひどい」とシェアさせればよくなってしまいます。
そうした人がいること自体は悪いことではありませんし、むしろ自然発生的ですが、ソーシャルメディアのこのような構造が彼らに加担する行動を私たちにとらせてしまうのは、さすがに気持ちがざわつきます。
私が大好きなセリフの引用に、アニメ「エウレカセブン」の「アストラル・アパッチ」の回で悪役デューイ・ノヴァクが放つ台詞があります。この言葉は言論にまつわるありとあらゆる希望を叩き潰す力をもっています。
お前はあの雑誌で真実を伝えようとした様だが、結果はどうだ、下らないモラトリアムをただ垂れ流し、時間を無駄に浪費しただけではないか。
もうわかっているだろう。大衆には、真実などどうでもよいのだ。大衆は真実では動かない。必要なのは、大きな声と強い刺激だ。さらに、その愚民共のちっぽけなプライドを刺激してやれば、彼らは真実よりも、紛い物を選択する。 兄として忠告しておく。ゼネラルな物の見方をしろ。さもなくば、お前に勝ち目はない。
そう。大きな声。強い刺激。そしてプライドに対する攻撃。見さえしなければ反応せずにすんだものに反応を強いることで、ゆっくりと醸成される壊れやすい真実を探す時間を代償に、紛い物に反応させるやり口。これには不快感を感じます。
しかし結局のところ、私たちは自分がそれぞれが何を信じるかの程度にしたがって、自分にとって不要におもえるものをスルーすることでしかこの構造には対応できません。
情報を拡散させる能しかないネットワークにおいて、自分がその情報をせきとめるストッパーにならざるを得ないという、不公平な闘争なのです。
あるいはそのうち、こうしたノイズを除外した情報のストリームを作る手段もあらわれるのかもしれません。しかし誰が検閲すればいいのでしょう。そして検閲者は誰が検閲するのか。
Matt は最初このハフィントンポストの記事が実績作りに忙しい若いミレニアル世代の若者が書いたものだと思い込んでいましたが、実際に著者を調べて、さらにげんなりとしてしまいます。
著者は Seth Abramson氏。40代のニューハンプシャー州立大学の英語学の助教授で、ハーバード・ロースクール卒の作家であり詩人だったのです。
「なんてことだ」Mattは記事の最後に付け加えます。「くだらないニュースサイトのためにクソのような記事を書いてると、受けた教育なんてものは報酬の小切手の裏側に隠れてしまうんだな」。
ここまでシニカルな結末で終わらせて良いのでしょうか。それとも報酬がすぐにみえなくても有用で、読者を欺かない(知的なものは知的なものとして、くだらない楽しみはくだらない楽しみとして明示した)コンテンツを生み出すことへの評価軸は、まだ生まれる前夜なのでしょうか?
自分が真実と思うものを自分が認識できる範囲で書き続けること。あるいは安易な刺激的な力を振るうことに堕してしまうこと。期せずして、これはダークサイドとの戦いになっているのかもしれません。
(追記)
結論のでない話ですが、このあたりについては 1/29 に開催される ONEDARI BOYS イベントでもご紹介しようかと思います。炎上の火で席を温めてお待ちしていますね(冗談です)。
(さらに追記)
眠い時間帯に書いた記事に思わぬアクセスがきたので、あとから誤字や、読みにくいところを論拠がかわらないように整備しておきました。