重要なことについて考える時、どんな問いを立てているのか?について
いつも考える糧を与えてくれる有名な著者のセス・ゴディンから、禅問答が一つ届いています。
重要なことについて、ちゃんと考えているかどうかがとても大事ならば、もっとも重要な質問とはなんなのか? いきなり頭が混乱しそうですが、「重要なこと」は「どんな仕事をしよう」や「この人生の決断をどうしようか」といった実際的なことで大丈夫です。
セス・ゴディンがきいているのは、「何が重要であるかをちゃんと決めているか?」という質問になります。
情報過多の時代は、答えが過剰に存在する時代と言い換えることができます。たいていのことは、検索するだけで調べることができます。結果を重視するならば、私たちはその答えの方を重視しがちになるでしょう。
しかし。と、ここでセスは押しとどめます。その答えが過剰にあるのなら、質問が適切であるかをまず問うべきではないのか?と
The key question is, “what’s the question?” Is this area worth thinking about? Should I maintain the status quo? Is this good enough?
鍵となる質問は、「なにが問われるべきなのか?」「このことについて考えるに値するのか?」ということになる。つまり「現状を維持するべきか」「これで十分か?」といった難しい質問をすべきということだ。
セスはマーケティングの背景をもった人間ですので、これはビジネス上の決断にまつわる思考の話だとみなしてよいでしょう。でも、それをさらに人生全体に一般化してもいいのです。
たとえば「パソコンを買うかどうか」といった単純な質問で考えても構いません。その質問の手前には「パソコンを買うことで何を求めているのか?」という前提に対する質問があります。前提に対する質問を深めれば、帰結として「買うかどうか」の部分についても答えの意味が深まります。
それをふまえてセスは問いかけます。「あなたは問いの答えについて考える以上に、問いの妥当性についてどれだけ時間をつかっているか?」と。
近道を避ける
問いそのものを深めることは、必然的に思考に深みをもたせますが、その一方で遠回りで苦しい道のりを選択することでもあります。
しかし、たまにはこれを実践しておかないと、結果的に多くの時間を失うこともよくある気がします。ちょっと卑近な例を持ち出すと、最近見たのが、とあるウェブサービスでコンテンツを売ることが可能だ = 故に売らなくてはいけない = どうやったら売れるのかという論述の進め方をしている場合でした。
この場合、無意識のうちに「売ること」が前提になっているので結果的にそれ以外の選択肢が見えてない、あるいはそもそもなぜコンテンツを生み出すのかという部分の問いがバイパスされています。すると、立てる問い自体が、期待している答えに縛られてしまうのです。
それが良いとも悪いともいいません。単純に、鐘は小さく叩く場合と大きく叩く場合でどこから響きがやってくるのかが違うという話なのです。
問題に対する問いの立て方がショートカットのように結論がすぐにみえた自動的なものになるとき、あえて問題そのものを定義する思考の仕方に、新しい価値を生み出す種が隠れていることも珍しくないのです。