日記

2022-10-10: その名前を口にしてはいけない

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証拠もあげないまま不正選挙と散々騒ぎ立てた大統領が退陣してからというもの、レイトナイトのコメディアンSteven Colbert 氏は彼の話題を出すことはあっても名前だけは頑なに口にしようとはしない。

そのたびに「名を口に出してはならないあの者」と婉曲的に触れたり、二度と再利用しない適当なあだ名をその都度でっちあげて観衆の笑いを誘うことはあっても、名前だけは決して口にしない。

もちろんこれはトールキンオタクであるところのSteven Colbert氏が「指輪物語」の冥王の名前がタブーであったこと、ハリー・ポッターシリーズの陳腐な悪役ウォルデモートもそうだったことを踏まえた皮肉であるのはいうまでもない。

悪なるものの名前を避けるのは、人間の歴史と同じくらい長い禁忌の歴史でもある。J.K.ローリングは1950年代から1960年代にロンドンで悪名を馳せたクレイ兄弟に言及して、「報復が怖いので誰もその名前を口にしなかった」という逸話がヴォルデモートの扱いに通じているとしている。

Anelli, Melissa and Emerson Spartz. “The Leaky Cauldron and MuggleNet interview Joanne Kathleen Rowling: Part Two,” The Leaky Cauldron, 16 July 2005

神話や物語でも、名前を告げることがその者に力を与えることであったり、名前を知られることが力の喪失につながるという禁忌は枚挙に暇がない。Steven Colbert氏は、そうした歴史を知った上で、注意深く名前の言及を避けているはずだ。ジンクスという言葉は英語では “I do not want to jinx it” 「不運を呼び込みたくない」と使われる。名前を呼ぶことは、ジンクス(不運)を呼び込むことになるのだ。

沖縄における基地移設の問題は、その土地に住んでいる人々にとっても複雑で、さまざまな立場と正義が交錯しているだけでなく、さらには本土と大国の思惑が権力の長い手を伸ばしてかき回している戦場そのものだ。

そこに、その問題を正面から引き受けるつもりもない、寄り添うつもりのない人物が嘲笑をソーシャルメディアに流す。人々の抱えた矛盾と困難を外側から笑い物にする。真剣に訴える人々が声を上げれば話題を翻す。さまざまな理由で闘う人々、その場で生きる人々の思いをかき乱したまま置き去りにして。

現実の世界には冥王はいない。名前を出せば闇と恐怖の力がいや増して、光が押し込まれてしまうような絶対悪は存在しない。いるのは、自分は正論を言っていると主張するばかりで、自分が目立つことばかりに腐心する影にすぎない。でもだからこそ、この影の名前を「呼んで」はいけないのだろう。

正当に批判することが必要であるのは間違いない。しかし対等の存在であるかのように、語るに足る人物や人物であるかのように本質から脱線してまで大きく扱うのは、つまりは影に「呼びかける」ことは、世界に不運を呼び込むことになりかねないのではないかと、不安になる。

今日のリンク

キーウの空襲

まだ悪夢の中。

詩人タラス・シェフチェンコの名前を冠する大学と公園が標的となった。ロシアに一時的に占領されていたボロディアンカにはタラス・シェフチェンコの胸像があったが、退却するロシア兵は処刑をおこなうかのようにその額に銃弾を撃った。

Sketchfabにはその3Dモデルがある。破壊された台座には、「おまえのウクライナを愛せよ。崇めよ、愛せよ、悪の苛烈な時にほど。苦闘の最後の時においてさえ、祖国のために神を追い求めよ」と書いてある。

「すべてを統べるアプリ」よりも

What we need isn’t an everything app. It’s an everything device, with small focused apps for features. You want to do more? Download — or better yet, create — a new app. And you’ve already got one in your pocket — or in your hand, as you read this very sentence on it — right now. Daring Fireball: Everything

読むことも、書くことも、配信も、決済も、すべてをやってくれるアプリといえば中国の WeChat をすぐに思い出す。イーロン・マスクがそうした「Everything app」という起業家の夢をつぶやく一方で、John Gruber氏はそうしたものよりも、すべてができるデバイスの上に多様なアプリが存在するプラットホームのほうが健全だと主張する。私もそう思う。

今日買った本

パン焼き魔法のモーナ、街を救う

シェフチェンコ詩集(岩波文庫)

堀 E. 正岳(Masatake E. Hori)
2011年アルファブロガー・アワード受賞。ScanSnapアンバサダー。ブログLifehacking.jp管理人。著書に「ライフハック大全」「知的生活の設計」「リストの魔法」(KADOKAWA)など多数。理学博士。

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